都留文科大学 98年度
S.T.
コミュニケーションとは何か。現代社会を読み解くキーワードでもあるこの言葉を、私なりに言い換えてみると−いくらひととのつながりが希薄になりつつあるとはいえ、ヒトである以上、自分がココにいる理由を確認するという行為をしつでけなければ生活していくことが出来ない、ということである。また逆に現在では、「希薄になりつつある」と言われることによって自覚し、他人との距離が取りづらくなっている部分もあるのではないだろうか。昔に比べて今の方が、温かいつながりを求めてムレている。そして温かいつながり=精神的な身の安全に、好くなからぬ矛盾した思いを抱きながら集団に属しているといえるだろう。
しかし私は、コミュニケーションがうまくいかない(マザコン、ファザコン、アダルト・チルドレンetc.)原因の多くを、育った家庭環境に投影してしまうような現代の風潮にも好くなからぬ疑問を抱いている。(ひところ流行したピーターパン・シンドロームがブームになった頃に抱いた疑問である。)なぜなら、彼らが育った環境のみが「異常」であったといっているにすぎないからである。
ヒトが「自分はフツー」という枠組みのなかで安住するために、他者とのコミュニケーションを取り続けていくことには無理がある。現在それぞれが矛盾を感じ、同じように戸惑い、その中でコミュニケーションを取っていくにつれ、同じよういな思いを抱いていることがわかりあえて初めて「共感」する。しかし、コミュニケーションがここで終わってはいないだろうか。「共感して、安心する」ことに重点を置いて、考えをぶつけ合うことはない。結局、相手が自分(の存在)までも否定しない、ということが分かるようになるまでの過程がコミュニケーションの醍醐味であり、面白さである、と私は思う。確かに時折わけのわからないようなヒトに出くわすこともあるだろうが、そういったひとへの対応もコミュニケーションを重ねるにつれて対処するすべはおのずと身についてくるものであろう。
この第2章の中でいわれている、<やさしさ−思いやり−教養−想像力−頭のよさ>とは、自己犠牲や施しではなく、相手を受け入れると同時に、自分も受け入れようとする態度の取り方である(=相互確証を通じての自己確証)。これはなるほど、と思う。
自分の伝えたいことを相手に伝えることは、難しい。経験に基づく言葉に対する認識が、お互いに違うからである。すべてをそのまま自分が思うままに伝えることが出来ないから、‘相手に伝わった’と感じることが出来たときの喜びは大きい。顔を合わせなければ本当の意味でのコミュニケーションが成り立たない、というのはそのためであろう。
コミュニケーションの取り方が難しいのは、同性異性にかかわらず、相手と接している‘自分’に自身が居心地のよさを感じることが難しいから、である。見られている自分と、思っている自分との間で葛藤が起こりやすいからである。ひとはその距離を狭めようとして、コミュニケーションを重ね、自分を訴えるのだ。その手段はさまざまで、「書く」であったり、「言う」であったりする。そのことによって、他人というフィルターを通して社会的な立場を築いていく。そして他人と違う‘じぶん’に個性を感じる。しかしその過程で距離の差が縮まらない時、個性は‘他人より優位に立つため’のものと解釈され、カネやモノや地位に置き換えられてしまいがちになってしまった。それが顕著だったのが高度成長が終わった80年代の消費は美徳、の時代である。
コミュニケーションは、その時代の社会背景を鏡のように映し出すものであると私は思う。だからこそ、社会の裏構造に
潜む現在の閉塞感を如実にうつしだしている。