都立短大 97年度 H.M.
私のこの章を読んだ全体的な感想を一言で表すとしたら、「今って熱血禁止の世の中だわ」である。読めば読むほど確信していったことである。現代は何かに熱くなることを、がんばろうとすることはバカバカしい、といった風潮がある気がするのだ。この章の中だけでもそれは充分読みとれる。人と生身で接することをイヤがる。対立したりして気まずくなったり、嫌われたり、仲間はずれにされるのがこわいからだ。そして、絶大なパワーの消費でもある。都合のいいことに、電話だのポケベルだの、間を媒介して、肌が触れないようにワンクッションおいてくれる便利なモノがある。会わなっくったってコミュニケーションらしきものはとれるのだ。会うことや人と討論することは、しなくたっていい、余計なものと思われている気がする。そんなことにパワーを使っているヒマがあるなら…という考えがまかり通り、それは明らかに近現代の著しい文明の発達とともに生まれた、ムダはぶき、なのである。
それは「学び」のコミュニケーションの節とも関連づけられる。知識のムダをはぶき、考えるパワーのムダはぶき、である。小学生のころだったか、「なぜ?」と思ったことを先生にぶつけてみたら「余計なことは考えなくてもいい」とやさしく返答され、ショックを受けたことがある。この“余計”が実はとても大切なことだったのだ、と今となって思う。余計な知識、ムダな教養、それこそが、実は自分にとっては一番大切で重要なことだったのである。統一化された知識から、一体何が生まれるのだろうか。様々に考え、ぶつけあうことによって新たな何かが生まれるはずではないのか。ここで使われるパワーはムダなのか。管理教育の真っただ中を生きてきた私には、怒りすら感じる疑問である。
さて、私も「頭のよさ」について考えてみることにした。文章中と同様に、それはやはり「やさしさ」なのだと思う。いや、思いたい。勉強ができる、偏差値の高い、高学歴な人々が本当に「頭のよい」人々だとは、絶対に思いたくないのである。こういった人々にとっての最高の喜びはきっと、勝負に勝つことや一番になることなのだと思う。明らかに心が狭いし、思いやることを知らない自己中心的な人だと思う。また、そんな人々を育成し、社会の中枢へ送り出していった日本社会全体は結果として「やさしくない」社会であることがわかる。そして、私は、そこにきわだつ人々、つまり、確固たる自分を持ちながら、困っている人がいれば立ち止まって事情をきいて、助けたりできる人々こそこそ、「頭がよい」のだと思うのである。しかし、他人にやさしくなれる人というのは、大抵自分も同じような痛みや傷を受けた人が多い。つまり、当たらず触らずな日々を送ってきた人ほど、やさしくなれないのである。私は、はたしてやさしくなれる頭のよい人だろうか。答えは自分ではわからない。しかし、助言したり、実際に助けてあげることはできなくても、話を真剣に聴く耳は持っているつもりだ。世の中エゴイストばかりだ、と思うことはよくある。私は私、という考えをおかしな方向へ持っていってしまったから、路上で着替える者がでてくるのだ。そこにある、目に見えない「個」の壁は、「孤」の壁でもあり、今や1人1人が持ち歩いている始末である。遮断された空間は確かに自由だが、決して百パーセント安らげることはない。人は人と接していなければ生きられないのだから。
私が書いておきたい事はあと二点ほどある。一点は、「誰かに助けてほしいと思う」人々のことである。これは、熱血が欠落し、やけに冷めた世の中で自分もクールになろうとしながらも、実は人とのふれあいを心から望んでいる人達の心の病だろうと思う。他人どころか自分とも真剣に向きあう術を知らぬままに成長してしまった人々の一種の現代病に思える。私が思うに、コンピューターの発達などで直接自分の五感を働かせて人と接することが少なくなったのと反比例して、「熱血」したくなった人が増えてきたのではないか。何かに燃える、それは戦後の“モーレツ”と似ていなくもない。しかし、社会の為でなく、これからは自分のために燃えてほしいと思う。親友や心から愛せる人に出会える世の中になってほしいと思うのだ。
最後の一点は、それにつながるのだが、そろそろ言葉を使うのを休んでみたらどうか、と思うのである。コミュニケーションをとるとき、一番簡単で有効なのは言葉である。人は言葉に頼りすぎてはいないか。そろそろ言葉はナンセンス、と思いたい。目と目、手と手、または体全体で自分を表現しあう。とても難しいことだが、言葉よりも深い心の交流が持てるにちがいない。人と手をつないだ時、その人の手の暖かさに安らかな気持ちをおぼえたこと。その人の目を見た時、その人の悲しみが伝わってきて自分も悲しくなったこと。そういった小さなふれあいの積み重ねで、人はとてもやさしくなれるし、またがんばろうとパワーをみなぎらすこともできる。人は、とてもモロイものなのだと思う。
明日からはみんな「熱血野郎」になればいいのにと思う次第である。