都留文科大学 98年度
U.E.
「沈黙」の許される空間を、誰かと持てるということ。これはすばらしいコミュニケーションのあり方の一つであると、私は思う。
許されるとは、決して不自然でも、苦痛でもないということである。もちろん、無関心からくるそれでは決してない。互いが、互いのことばや存在を、深く受容する時。会話の合間、様々に思いめぐらし、誠実に他者と、そして自己と対峙してみる時、ふとおとずれるそれのことである。その空間に<情報語り>は必要ない。迎合することも、虚勢を張ることもない関係の中でこそ、人は円熟した沈黙を得るのである。
しかし、こんな沈黙もある。谷川俊太郎の詩集『女に』の「電話」という作品。(“あなた”は当時不倫中の佐野洋子。今は妻。)
「あなたが黙りこんでしまうと時が凝固する
あなたの息の音にまじって
遠くで他人の笑い声が聞こえる
電話線を命綱に私は漂っている
もしあなたが切ったら……
もうどこにも戻れない」
−ギクリとする。現代にはむしろ、こういった沈黙こそが主であろう。私もまた、よくキリキリと胸を痛める。ただ、問題なのは、私や谷川のそれが「戻る」であり、現代においては戻るも何も、初めから依拠するものすらないということである。なぜか。
大量消費社会、資本主義の物質文明における「競争」の原理は、人間の価値をあたかも生産能力の有無で決める。合理性・効率性のみが重視され、周りには一過性の、読みすての文章(再読にたえない)が満ち、コミュニケーションが、情報伝達のみの意に解される。競争原理社会の画一化した価値観の中では、人は常に他者から評価される存在でしかない。
つまり、弱みをみせれば「負け」なのである。認めてもらえない。本当の自分を理解してほしい、でも悪く思われたくない、みじめになりたくない−そんな気持ち。真の意味でのコミュニケーションを避ければ、自分の能力が明らかにされることも、浮くことも、ばかにされることもない。だからそうする。
もちろん、語り合える人間関係、沈黙の許される関係は期待できない。ことばは、真実を伝えようとするものでなく、真実をかくすものになっている。自己表出であるはずの表現行為は、自己隠蔽のための手段になりつつあるのではないだろうか。そこでの沈黙は、断絶でしかありえない。《相互確証を通じての自己確証》の危機なのである。
では、どうすればよいのか。豊かさ、そしてやさしさということを考えてみる。
ものがあれば本当に豊かといえるか。よし、そうだとすれば、人間に欲望のある限り決して豊かにはなりえまい。それは幻影であって、実体としてとらえられないものである。ならば充足感はどのような時感じるのか。それは、一人の人間として、他者と共に主体的に生きていると感じる時であろう。豊かさとは、自ら求めることと共にあると考えたい。満たされた気持ちの中にこそそれは発見されるのではないか、と思う。
いつか私達は、実際に自分の部屋を出なくとも、直接人と会わなくとも、不自由なく便利に暮していけるようになってしまうかもしれない。授業も、買い物も、人と話すことですらも、機械が人と人の間に入り込んで、簡単に速やかにあくまで合理的に用をなしてくれるのである。確かにすぐ結果の出る生活は快適かもしれない。人と会うことや電話の代わりに手紙を書くこと、相手の心を思いやることや自分で物事を考えることは、なるほど、痛みや不都合、まどろっこしさやつらさも多いに違いない。しかし“人間”とは、本来そういった、まどろっこしく、複雑でやっかいな存在なのではないだろうか。コインを入れれば、即欲しいものが手に入るような、そんなお手軽で、浅薄な存在であろうか。
否、である。ここで「やさしさ」を思う。人間は、弱く愚かであるかもしれない。しかしひどくいじらしい存在であると思う。「あなたが必要だ」そう誰かに求められずして生きていられない。沈黙に震え、偽りの「やさしさ」という術で自分を守り、直接性の痛みから遁れながらも、なお他者を求めてやまない。真のやさしさを「頭のよさ」とするのに異はない。「優」は、優れているという字でもある。ただ私は「優」を、人が人を「憂う」という字であると思いたい。それこそが現代求められるべきあり方ではないかと思うのだ。そこには厳しさも、もちろんある。人間を決してあきらめないものがある。かくありたい。
ところで、コミュニケーションの手段に、文章によるものがある。私は高校の頃、小説や詩を文芸部誌として出していたが、ある時、全く知らない人に「あなたの詩、好き。」といわれた。新聞に載った私の読書感想文に感動したと手紙をくれる人がいる。
私はそれだけで、生きてゆけるのである。