ひとりじゃないから、ひとりでいられる

都留文科大学     99年度     K.M.

   「ひとりじゃないからひとりでいられる」というコピーが好きだ。Macの広告で使われていたので、意味合いとしてはパソコンを使っていろんな人とつながりましょうということなのだが、いろいろと考えさせられる。自分の居場所がある人、人とのつながりの中で自分という存在をしっかり見出せている人は独りでも全然平気なのだ。大勢の中に一人きりでも、ケータイをかけまくってどうでもいいような話しをして、独りでいる気まずさを紛らわすようなことはしない。他者と存在を受け入れあうことで得られる安心感がパワーをくれるから。「星の王子さま」の中で、夜空には星がいっぱいあるけれどその中の一つの星に大好きな花が咲いていることを知っていれば、全ての星が愛しく思えるという一節がある。(もっといい文章だったけど…忘れちゃった)人とそんなふうにつながっていられたら最高だ。サン・テグジュペリはサハラ砂漠に落っこちても、きっと孤独じゃなかったんだろうなあ。
 私自身のコミュニケーションはどうかというと結構つらいものがある。友達に「楽しいことだけしか考えていないみたいだけどそれじゃ駄目だよ」といわれてびっくりしたことがあるのだが、それは自分の今までの生き方をびしっと言い当てられたからだ。努力とか根性なんてことばがずっと嫌いで、苦しいことや面倒くさいことから逃げてだらだらとここまで来てしまった。(努力etc,には他人の思惑や押しつけがましさを感じてしまうから好きになれない、ということもあるけど)努力なんて別にしなくても何となく生きていけるよ、というのは自分と向き合うことからの「逃げ」だったのだ。エヴァンゲリオンの中で主人公が「楽しいことばかり紡いで生きていくことのどこがいけないんだー!」と叫ぶ場面があったがまさにそれである。現実には嫌な思いをしたり、毎日はその繰り返しで、それを見ないで楽しいフリをしても、本当に満足しているわけじゃない。私は他者との関係でも物事に対するときでも、葛藤を避けて楽なほうへ流れてきた。(今気づいたけど「葛藤」ってすごい字だ。くずふじ…いかにもごちゃごちゃうねうねって感じ)でもそれでは私自身も私と他者との関係も進歩しないんだ。コミュニケーションは何も考えないでできるほど簡単なものじゃなかった。人との接し方、関わり方こそ努力して自分で考えていかないといけないものだった。心理学の本だったか、問題が発生したときの人の対処方法みたいなことが書いてあって、一番健全なのは、まず問題を認知し→その対処を考え→最も適切だと思われる策を実行する、というものだった。めちゃくちゃ当たり前に聞こえるけど、そんな当たり前のがなんて難しいんだろう。そんなふうに前向きに努力しつつ毎日生きていきたい。苦しいことにちゃんと立ち向えるような強い人間になりたい。
 今まで「私のことなんか誰もわかってくれないんだわ」というのが私のキャッチコピーだった。そんなの超バカみたい。もうやめやめ。自分を受け容れてもらう努力も相手を受け容れる努力もせずに、すごい傲慢な考え方をしていた。やさしさについて同じで、自分の期待通りに動いてくれる人がやさしいと思っていた。他者を自分の思い通りにすることなんて絶対できないのに。思い通りにならない人を受け容れることで自分も受け容れるもらえるのに。人に勝手に期待して勝手に失望するのはもうやめよう。私に「楽しいだけじゃダメ」といってくれた友達はすごくやさしかったんだなあ。
 私の兄は、私がどんなに重い荷物を持っていても絶対に持ってくれない人だ。だからずっとやさしくないと思っていた。小言は多いし、顔を見れば勉強しろとうるさく言う。難しげな本を送ってきたりもする。(あら?実はやさしかったんだね、お兄ちゃん。)兄はよく私に大学でぼーっとしてるとすぐバカになる、と言うのだがそれはかなり当っている。私たちは主体的に学ぶことになれていないので、浮かれている間に四年間が過ぎてしまうのだ。そうならないためにも、知識詰め込み型教育になれた頭のリハビリもかねてじっくり本を読むことから始めようと思っている。ちょうど夏休みだし。実践につながるような、飛ぶきっかけになるような知識がほしい。(飛ぶための翼が想像力で、知恵は風を読む力、という感じ)プリントにあった、一人でいる暇な時間をうまく使えるのが頭の良い人、というやつ。なるほど。前途多難だけど、まあぼちぼち頑張るつもりだ。