1998.6.17. 斉藤 吉広
「頭のよさ」って
▼人間関係において、主体的に行動をおこそうとする自分と、それを見つめている客観的な自分が存在し、それがその人の中でつり合っている人はいい意味でも悪い意味でも頭のいい人だ。どちらかしかない人は、さみしいと思うし、2つのバランスが崩れている人はそれ以上に甘い。(2♂)
↑何となく、わかる。
▼「頭のよさ」の話を聞いて、私も、優しい人、周囲とうまくつき合っていける人は、頭がいいなぁと思っていたので、それは、よく分かるのですが、そうすると、私を含めて人に優しくしたり周囲とうまくつき合えない人間は「頭が悪い」から、いけないんだと言われているようです。それは確かにそうだけど、そういう人は常に、優しくなりたい、人づきあいをうまくしたいと思っているわけで、その努力と、経験こそ、コミュニケーションだと思います。でも、本当はよくわかりません。(2♀)
↑「やさしさ」の内容の理解が私と違うのかもしれない。「まわりとうまくやっていける」かどうか自体を問題にしたのじゃないのだけれど。「誰とでも仲良く」とか「悩みなさそう」とか見える人だって実はけっこう不安を抱えているものだし。
▼大学入ってから尊敬する先輩ができました。確かに勉強はできない人かも(4年で卒業できない)でも、本当にすごい人です。「頭のいい人」なんです。私の目標です。(2♀)
↑そうひとがいるって、いいよね。
▼“頭の良さは優しさ”だと私も思います。他人に簡単に失望しないことも頭のよさだと思う。(4♀)
↑自重したいと思います。
▼中島らもという人が(作家)「本当に賢い教養ある人とは、独りでいるひまな時をどうやって過ごすかによって決まる。時間の使い方の上手な人が教養のある人」という風なことを本の中で言っていた。(3♂)
↑うーん。いてて。
▼「想像力を働かせるには知識が必要」という先生のコトバが身にしみた。それで思い出したのが、「基礎があれば時代を軽々ととびこえられるの」という、雑誌の対談(with
篠原ともえ)で語っていた美輪明宏のコトバだ。「知識」というと押し込むものばかりだと思っていたけど、「知識」はむしろ、創造力・想像力のサポート的役割のものなんだなという気がした。明宏さんのいう、「基礎」とは要するにこういう意味での「知識」だったのかと、授業をききながら思った。(3♀)
↑こういう風に「連想する能力」ってそれこそ創造力・想像力に結びつくものだと思うよ。
▼今日の授業で一番印象に残っているのは、“自分の頭で考える”という事です。私の場合、例えば、レポートなどで「?について自分の意見を述べよ」という課題が出たりすると、新聞やテレビ、本などで、権力のある人の言っている意見を、ちょっと言い回しを変えてそのまま使ってしまうのです。勉強以外でも、たいていは、人の意見に流されてしまいがちです。(2♀)
↑その方が「安全」だからだろうね。
▼よくテレビで、未開の奥地の人々や、昔ながらの生活をしている人が映ることがあります。前みた1人の男の人は、ある川の漁師を
40年やっていて、毎回同じようにあみをうち、魚をとる生活だそうです。その人が、ふねにのってあみをうつ光景を見て、何か、すごく感動しました。学校に行ったこともない、本を読んだこともない、ただ、その川と魚のことしか知識とよべるものはない。それでも何か、その人の目を見ていて、考えさせられました。知識をもっていても人間的に、すばらしいと思える人は、多くはありません。人の価値(そんなものがあるとしたら)は、知識とは、全然ちがうところにあると感じました。(2♀)
↑そんなあなたに、『パパラギ』(立風書房)をお薦めします。是非、読んでみて下さい。
▼中学で、いい意味で「バカ」な奴と友達になった。彼の考えはきばつなものばかりで、直感的に感じた人間の大きさに負けを認めた。それからはわりと安心して生きてこられたと思う。(2♂)
↑「かなわない」っていう他者がこんな風に自己を安心させてくれるっていうのは、幸せでしたね。
▼ところで、頭のよさについて。どんな人が頭がよいかとかいうのは別に関係なくて、自分が自分の思うように生きれるか
というのが大切なんじゃないかと思いました。(3♀)
↑つまり、そうやって“選別”することの危うさが気になったのだと理解しました。
▼先生の意見での<頭のよさ=やさしさ>というのには、異議があります。先生のいう<やさしさ>とは私たちの世代では、<いい人>と呼ばれる人種で、私たちの定義する<やさしさ>とは、全く別ものではないでしょうか。(2♀)
↑一応注釈したつもりだけど。にしても、「異議があります」なんて、そんな肩肘張った言い方しなくてもいいのに。
▼先生は「頭のよさ」は「やさしさ」と思われているようだが、僕はそう思えない。特に現在の「やさしさ」というのは他人の評価を考えて「やさしい」ふりをしている人も多く、やさしい人というのを「頭が良い人」とは一概には言い切れない面も多い。(3♂)
↑やっぱ、「やさしい」っていう言葉のもつリアリティは確実に変化しているのだね。
▼勉強ができることが頭がいい、かしこいってことじゃないことは何度も言われたことがあるし、自分でもそう思っていたけど、だったら何が頭がいいってことなのかは、誰もちゃんと説明してくれなかったし、自分でもよく考えたことがありませんでした。(3♀)
↑いい機会になったかな?
▼(私の記憶が正しければ)「思いて?」のことば、論語の一節であるが、「危うし」は、「危ない」という意であるにはちがいないが、「あいまいである」「はっきりしない」という意も含有するものと思われるが…。
↑どうも。「思いて学ばざれば危うし」を「危険」と「曖昧」の両犠牲でとらえても、とりあえず話は通じるように思うのだけれど、どうだろう。
「優劣競争ゲーム」
▼私のゼミの中にも完璧に自分は「優」だと自己認識している人がいて、いつも嫌な思いをします。一般的に「オタク」と言われていると思いますが、論は曲げず、他人の意見はさえぎる、言いくるめる、つかれます。私は、「私は私のやれること(やれる範囲)をやっていこう」「分からなければ、後から知ろう」のタイプなので、週一回ゼミが苦痛です。(3♀)
↑あのぉ、担当教員はどういう対応をしてるんですか?
▼また、会話中、自分の得意分野の話題を話したがるというのは、自分のことを言われているようだった。知識があるからえばれるわけではないのはよく分かるが、そうしていしまう自分が情けない。(2♂)
▼「優劣競争ゲーム」ガツンとボディーブローをくらったというかんじでした。まさに私!! 先生の「勝ちつづけなくちゃいけない」という言葉に、「そうだ!!
私は今までなんてはりつめた人生を送ってきたのか!」と思った。(2♀)
↑そう、さっさと降りようよ。
▼「優劣競争ゲーム」に関しては、今回言われて初めて気がついた。自分はまさにこのゲームをやっている一人である。自分に「優」をつけることもあるし、「劣」をつけ落ちこむこともある。そして、今日は、それに気づいた自分に「優」をつけれるでしょうと思ってしまったりする。なかなか
やめるのは難しいと思う。(2♀)
↑その度に「しまった」と思えれば、徐々にゲーム降りれます。
▼去年の感想にもあったけど、優劣ゲームには自分のバカさを競うゲームもあり、自分もその中にかなりまきこまれていて、どんどんバカな人間になってしまっていると思う。このしがらみ、何だかいやです。気づいてても人間関係の中でやめられない。(2♀)
↑ま、一歩一歩。
▼たしかに、私がいい成績をとると その人はとてもよろこんでくれたし、その人は周りにも自慢していたみたいだけれど、ある日面とむかって「おまえなんか生まれてこなければよかったのに」といわれたときは、ものすごいショックをうけました。それと同時に、成績がいいことをよろこんでくれるのと、私の存在をみとめてくれることは全然別なんだということに気がつきました。(3♀)
↑「存在証明」って、やっぱ大変だよね。
▼でも「優劣」とつけないで私たちは生きていけるのだろうか。「あいつには負けたくない」という気持ちがあってもいいような気がする。勉強においては。だって目標というかライバルがいないとどこまで頑張ればいいのかがよく分からなくなってしまう。(2♀)
↑「目標」の人を持てるのは幸せだと思うよ。言いたかったのは、今目の前にいる人間と、そんなこと気にせず萎縮しないで… っていうことだったのだけれども。
▼優劣競争ゲームの話についてですが、知っていることをひけらかすのはやっぱり自信がないから(自分に)ではないでしょうか? と私はずーっと思っているのですが。「私はこんなことを知っているんだよ」ってひけらかしたり、いろいろと‘人より優れている’と示すことで、また自分と他人との優劣を比べることで、あやふやではあるけれど何とか自信をもとうともがいているのではないかと思います。‘比べる’ということをする時点でやっぱり自信のなさというものが顔を出していると思います。私もそんなに偉そうなことを言えた義理ではないですが、‘比べる’ことほど無意味なことはないと、やっと少しずつ実感できるようになってきて、今日の講義についてはそういうふうに感じました。(3♀)
↑「比べる」ことに慣れてしまったから、「存在証明」の手法として<優劣競争ゲーム>がこんなに流行してしまったんだろうね。
▼頭のいい人って、すごく素敵だと思う。優しさをもって他人と接することのできる人、そういう人のそばにいると心が和む気がします。「優しさに向かわない頭の良さなんてクソくらえだ」って先生がおっしゃった時、何かすごくスッキリしました。何か、私の中をつきぬけて行った。 …けれど、同時に笑っちゃいました。 「じゃあ、私なんてクソまみれだわ」って。…ずっと、好んで<優劣競争ゲーム>してきたから。今のところ、、まだ負けてない。負けたくない。…けれど、負ける日が来るのだろうか?(こんなこと書いたら、これが現実になってしまうのでは…って、おびえてるような、ちっぽけな人間のくせに。こんな私のナニを見て欲しかったのだろう?「私をもっと見て」「私をほめて」って。) 私、足洗います。今度は、好んでこのゲームから、おりる。(4♀)
↑うまくおりることができたら、教えて下さい。よろしく。
▼大学に来て、「だれだれちゃん」と比べるための順位が存在しないことに気付き、どれだけがんばればいいのかわからず、自分がどれくらいの学力なのかもわからずにやってきた。でも大学に来て私がそれまでこだわってきた数字、順位の無意味さを身をもって知った。(3♀)
↑フランス語を教えている組合の仲間から聞いたんですが、ある大学生との会話。「私に偏差値を付けて下さい。」「どういうこと?」「自分の偏差値が分からないと、今後どういう道に進むか判断できないからです。」?うわぁって感じ。
▼その人はいつも正しい人でした。そして「俺に意見するヤツは言葉に責任をもって、自信をもってから言え。」と言います。だから周りは自分にあまり自信のない人たちだったりすると何も言えません。彼は頭のいい人だったけど、その意味ではやさしくありませんでした。正しい人こそ周りに気をつかい意見を言わせるすきを自らつくることはとても難しいかもしれないけど、それができたらいいなぁと思います。彼は頭はいいけど、それはやさしさにつながらなかったんだなって今、思います。(3♀)
↑自分の「正しさ」にこだわると、「何で分からないんだ」「理解できない奴はバカだ」って人を見下しやすくなると思う。『教育』の文章にも書いたけれど、「真理は関係の中で形成される」という方が私の今の実感に合ってます。
▼<優劣競争ゲーム>は確かに学校(幼・保・小・中・高・大)内でのことを考えると悲しいのかもしれないが、僕は、「今の世の中を考えて変えて欲しい」と思う。社会の仕組みは現状においてまさに<優劣競争ゲーム>そのものではないだろうか。そのことも含めて言っているならばいいと思うが、僕自身にはキレイごとにしか聞こえない。(3♂)
↑「社会の仕組み」というレベルではおっしゃる通り。でも、「今の世の中を変えて欲しい」って、じゃ一体誰が変えるの? あなたは「変わる」のを待っているだけなのだろうか。“自分自身の振る舞い方を変えなければ、社会も変わらない”という実感を私は持ってます。逆に言うと、“変えれば、変わる”。非常勤講師組合の活動を通じて、確信を強めています。「キレイごと」という言い方で諦念を合理化しない方がいいんじゃないかな。
▼優劣競争のことにしたって、人に負けて悔しいと思うことはよくある。特に自分はそう思う方だと思うけど、あまり考えすぎるとつかれる。時には周囲との優劣を考える前に、今の自分にできるすべてのことと納得するのも大事かな
とたまに思う。(2♀)
↑同年代の社会学者にすぐれた人がけっこういて(なぜか1958年生まれが多い。私は1960年)、「あ、オレ、ダメダナー」って意識することが多かったのです。今でも本の奥付を見て自分の年齢と比較しちゃう。でも、「やれることを、やるしかない」っていう風に思えるようにはなってきてます。
「面白さ」って
▼今日の最後に読んだプリントには何だかやられました。心臓にナイフが刺さったみたいでした。今まで「面白くない」と考えることが山のようにあったけど、その根拠が今日初めて暴かれたと言うか。私は今まで何をひねくれていたのかな?と思う講義でした。(2♀)
▼面白さ=大切さ の話になんとなく、すごく感動した。当たり前のことに気付いていなかった気がする。大学はつまらないと感じたこともあって、それは今日の授業のとうり、自分で何もしない、動かないから。分かっているけど、今、何をしたらいいのか分からない状態です。自分の好きなこと、やりたいことを、すればいいのかもしれないけど、それがないから何をしたらいいのか分からない。私ってつまんないと思う。誰かが一緒でないと行動できないし、そんな自分を変えたいと思ってる。(2♀)
↑本を読む人ですか? 書物の世界って、広大で果てしないんですよぉ。それがひとつのおすすめ。もうひとつは、行動範囲を今の“安全圏”からちょっと広げてみること。“同質な人(とふるまう人たち)”から違う場所に行ってみると何か見つかるかも。
▼日頃、「何か面白いことないか?」と言っていた自分にとって、今日の「面白さ」とは?
という講義の内容は、時間にしては急ぎぎみだったが、心に残るものであった。全く、そのとおりだと思った。リスクをおかさず、面白さを得ようとする心を自分は持っていたと思う。自分が安全圏から出てみること、その一歩を今日から心がけるつもりだ。(2♂)
↑どうぞあせらずに。成果があったら教えて下さい。
▼実は、今の大学の授業で、つまらないと思うものは、無い、いや、少ない。講義で完全につまらん、もう嫌だ!と思うことはどういうことなのだろう。今迄、自分が知らなかった知識を得るのも、面白いと思う。これは、自己満足とか、先生の言う、受け身の楽しさなのだろうか。つまらない授業、面白い授業という分け方より、痛い授業、楽しい授業という分け方が私の中での分類だ。この授業は、私にとっては痛い。それは、私が今迄、これで良い、とか、楽しんでいたことを、壊す授業だからだ。でも、だから来たくないとは思わない。それがキッカケで、いろ2考えられるから。こんな私は安全で危うくない授業で面白がるどうかした人なんでしょうか?(2♀)
↑満足している人の気分を害するつもりは、ありません。
▼でも、最近いろいろな授業がおもしろくなってきたのは、受身だけじゃなくなってきたのかもしれないと思った。(3♀)
↑よし、行けぇ?
▼「面白さ」について自分なりに感じたことは、「面白さ」というのは自分が作り出すものではないかということです。私は去年まで、2、3つの授業をのぞいて面白いと思ったことはなかったし、日常生活でも、サークル、バイトは何もやらずに楽しいなんて思いませんでした。しかし、今期に入って自分で授業の内容にもっと興味をもって受けてみようと思い、そのようにしてみると、前よりも、授業がつまらないとは思わなくなったし、バイトも始めて、人とのつきあいが楽しいと感じています。これはまだ始めだからかもしれないけれど、自分で「面白さ」をみつけようと今日ますます思いました。(2♀)
↑私なんか、学部を卒業してから「あぁ、ちゃんと授業出ておけばよかった」と後悔したもんね。早くそういう気になってよかったよね。
▼面白いことを人に与えられるのを待ってる、という人が多すぎ。「自分で動けよ、うだうだ言う前に」とよく思う。最近言っちゃう。「そんなこと言ってても何も起こらないよ」とかって。うわあエラそう、人のこと言えるのか?(3♀)
↑何かひとつでも、自分が生き生きできる場を持っているのなら、遠慮しなくてもいいんじゃないかなー?
▼私は教員をめざしています。今、教育関連の授業でいろいろなことを学びながら、面白い授業ができたらなあと、よく考えていました。で、今日いきなりこのレジュメを見てドキッとしました。自分自身、日々を惰性と将来への不安とで怖がりながら毎日をおくっていて、そういえば人生をたのしんでるようなコトは何もしてないような気がしてきたのです。このままではもしや、首尾よく先生になっても、知識しか伝達できない、歪んだ教師になってしまっていたかもしれません。「学ぶ」ことは“しあわせになる”ことだと、漠然と考えています。でも、“しあわせ”につながる学びが何なのか、今は自分の言葉になっていないような気がします。(4♀)
↑きっと、あなた自身がどれだけ「学ぶことで幸せになる」実感をつかめるかなんでしょうね。林竹二や竹内敏晴の著作を読んでほしいなーって思います。
▼私にとって『面白い授業』とは、少人数で、先生と生徒が友達関係の様に接してするものだと思う。最近、若い教師においては、その様な感じでしているのが、問題として、生徒による敬語の使い方が誤っている。難しいとは思わないと自物でも思っていたが、就職活動上、誤った敬語を自分でも使っていた。(4♀)
↑?誰かも指摘してたけど、最近の学生は自分のことを平気で「生徒」と称する。「“生徒”じゃない“学生”だ!」というプライド(?)をもたないらしい。どうしてだろうか。?「友達関係」と「敬語」ってあまり両立しないものだと思う。というか、話し方に気を付けなくてもよくなればなるほど「友達関係」が深まってるんじゃないかな。ま、この人の主眼はきっと「少人数」っていうところにあるんだろうけど。
▼私は確かに先生(教師等)は万能ではないし、知識のつめこみ、受験のための勉強を押しつけているかもしれない。しかし、その先生を批判する教育評論家諸氏は、本当に批判するにあたいするのだろうか。灰谷氏は現場を甘く見すぎているのではないだろうか。国語、算数の授業の中で写真を見せて興味を引くのはあたりまえだと思う。じゃあずっーとそんな授業を続ければいい。心だけ豊かにすればそれでいいのかと思う。(3♂)
↑灰谷さんに嫉妬してない?
私の人間関係
▼みんなの意見がのっているプリントを見て、みんななやんでるんだなぁと思いました。あんまり悩んでいるところとかを他人に見せまくったりする人っていないけど、自分のカラに閉じこもることは普通なんじゃないかと思います。自分の悩みとか批判とかを他人にぶちまけても相手から望んでる答えが返ってくるのはあまりないことだと思うし、相手にも迷惑になると思う。だから私は今は自分の悩みは自分で考えて他人とは表面だけでも良くつきあうのが良いと思う。(2♀)
↑さて、このことがまさにテーマだ。
▼私はカッコイイ生き方をしている人に賛同することで自分をその人にかさね合わせて自分もそういう風に生きているような気になっていることがあります。でもハッと気づくと自分がつまんない人間だとつくづく思うのです。(2♀)
↑例えばどういうのを「カッコイイ生き方」だと感じるのか、興味ある。
▼自分の存在を周囲が認め、受け入れてくれているかどうかという不安があるのは私だけではなく、人間のもっている不安なのだと分かり、少し安心した。[…]自分はおちこぼれだと思っていたけれど、友だちがたくさんついて来てくれているし、人間は偏差値ではないと先生が言ってくれると安心できる。他の教授はそんなこと絶対に言ってくれないような気がします。(4♀)
↑そうかなぁ? まず少なくとも言葉としては「偏差値なんて」と発する人がほとんどだろうし、本当にそう考えてる人も相当いると思うけどねぇ。ところであなたは、大学・短大の受験を最初から諦めざるを得ないようなレベルの学力(偏差値)の人たちのことをどう評価しているのだろうか。ちょっと気になる。
▼先生のいった、「人の話をきいてるのかと思えば、その人が話しおわるのをまってるだけ」といったシチュエーションがなくはないことに気づいた。最近は、よく「ていうか」なんて言葉がよくつかわれているけど、この言葉は人の話をさえぎって、自分の話題に転換するのにピッタリの言葉かも知れないと思った。(3♀)
↑私も、たまにやってしまいます。
▼1日に1件も入らないとその日1日ブルーな気分になります。ただつまらないことでもベルが入ると、私がいないところでも私のことを考えてくれるんだと思いほっとします。この前、彼が2,3日ベルをまったくいれてくれないというのが原因で大ゲンカしました。よく考えてみるとくだらない理由だと思います。近いうちにベルをやめて、けいたいにしようと思っています。(2♀)
↑ベルと携帯にどんな本質的な差があるのかなぁ? 「かかってこないと不安」という感覚に関して。
▼コミュニケーション論の講義を聞いてると、どうしてみんなそんなに寂しいんだろう、と思う。ポケベルも携帯電話も私は持っていない。たまごっちも、高校時代の終わり頃に流行したけれど、友達も誰も持ってなかったし、別にほしいとも思わなかった。「そんなモノ買うお金があったら本を買う」と思っていて、今もそれは変わらない。でも別に寂しいとは思わない。(2♀)
↑そういう人もいるし、そうでない人もいる。/「偏差値」の高い学校の人はそういう影響を受けにくいかもしれない。なぜなら、自分を「偏差値」に依拠できるから。
▼一人暮らしが寂しくて、よく長電話をしてしまうのも、「人に拒絶されたくない」一心から始まってしまうのだなと感じた。親は「なぜこんなことをするのか」と疑問視するが、僕にとっては、「一人でいたくない」という気持ちを無視されたようで、なんとなく、いやな気分になることもある。(2♂)
↑ボクも精神的にかなり不安定なときは、電話かける相手を探したなぁ。他には、ゲームセンターや碁会所に通ったり。
▼何だかわからないが、最近は時間の流れに過敏です。[…]ボクは、長い期間休学したりフラフラしていて、きょねん戻ってきたんですが、時がたって同じ学校で同じ季節に同じようなことが起こって、そして、存在する人間だけが違う。 あぁ、はかない。(3♂)
↑ミーハーって言われるかも知れないけど、私、『ロングバケーション』をビデオで観て気に入りました。「人には神様から長い休暇が与えられることもあるんだよ」というメッセージ、私は好きです。あなたはどうですか?
▼アンケートの結果[…]とても真剣に悩んでいる人(私よりも)もいるし、考えているけれども、そういうことについて、冷静な人もいて、ああ、大人だな、とすごく感じた。しかし、このアンケートをバカにしたり、そういう奴とは付き合いたくない、という人の意見には驚いて、ゾッとした。私は、こういう悩みを友人には相談することができない、(自分の心を開くことが出来ないので)ので、変なヤツ、とおもわれそうで、ますます相談しにくくなってしまった。こういう自分に対しての悩みや、内にかかえている問題は、どのように対処すればよいのでしょうかねぇ?(3♀)
↑この文体だったら、あまり深刻じゃないように感じちゃうんですけど。当の「内にかかえている問題」を日記とかの形で表現してみるだけで癒されるレベルなんじゃない?
違う?
▼でも他の人をもっとうまく理解する力を持てば、そしてそれは自分を知るということでもあると思うけど、そうできれば心を豊かにすることはできると信じている。心が豊かだということの解釈は人それぞれあると思うけど、それに向かって進もうとすることがそもそも心を豊かにするという意味だと思う。(2♀)
↑何年か前の受講者の言葉に、「他者に好奇心を持とう」というのがあり、ハッとしました。「他者のことを知らなくて済むのなら知らないままにしておこう」という態度を私自身が持っていたからです。自分の可能性は他者(との関わり)にこそ拓かれる、と抽象的に考えていただけで実践していませんでした。今、努力しています。「好奇心を持つ」って、とてもいいキーワードだと感じています。
▼正直言って、コミュニケーションを取るのに現代ではここまで自分自身を見つめ直さなければいけないのだろうか、というのが私の意見である。「正しいコミュニケーションの取り方」というものは、無いのではないか、コミュニケーションに限らずあらゆる諸問題には時代の価値観の流れで右往左往してしまう。「優劣競争ゲーム」であれ、「自己防衛としての優しさ」であれ、「親友というフィクション」であれ、作り始め、広めた、つまり原因は現代の大人(団塊の世代)にある。事象としては分かり安いが、学問としての結論が見えづらい。(3♂)
↑《そこまでふみこむな→「正しさ」なんてないんだ→そもそも大人のせいじゃないか→こんなの「学問」じゃねー》という流れでしょうか。/問題を感じないならば、今まで通りに振る舞っていただければいいだけのことなんですが。
▼私は人間関係で落ち込んだりすると、エレファントカシマシの曲をきく(そして泣く)か、清水義範の本をよんで、「人間なんて
こんなもの」とたかをくくることで何とかしてます。この時代、悩んでない人間の方が病的だと思うので、これからも大いに悩みたいと思います。(4♀)
↑清水義範の文体をまねしたい私。
▼先生の話を聞いていて、“自分は小・中学生の時ちょっと嫌な奴だった。”とおっしゃってましたが、それに気付いたのには何かしらきっかけ、経験があったと思います。それを聞かせて下さい。(2♀)
↑昔、「あいつは使いもんにならないよ」と私が言ったとき、「そういうこと言う人嫌いだな」と言われた。もっと昔、「斉藤って信用できないよな」と面と向かって言われた。?思い出せるのはそのくらい。他にもいろいろあったんだろうと思うけど。何ともないふりしてたけど、双方の際、相当ショックだったなぁ。
モノとコミュニケーション
▼やっぱり誕生日になれば、誰かに何かもらいたいって思う。知らないうちにそう思うことが当たり前になっていた。それはそれで仕方ないし、それに、人間関係がモノ化しているのは別に悪いことではないような気がする。(2♀)
↑欠乏感にさいなまれるようなことがない程度なら問題ないだろうけどね。
▼私もカレに指輪を買ってもらったことがあります。指輪っていう高価なものを、カレが私のために、自分のお金をはたいて買ってくれる…っていう行為に、なんだか安心感をもって生活している様な気がします。先生は、(指輪なんて意味ナシダ!)って、もし、フィアンセがいたら断言できますか? 世の普通の女性なら、その一言で、婚約解消!!
っていうことも起こりうる社会だ、と思いますヨ。(2♀)
↑元彼女にネックレスや指輪を買ってあげたことあります。それは、モノを贈らないと危うくなりそうな関係だからでした。当時自覚していたわけではありませんが。私自身にとっては、モノを必要とすればするほどその関係が頼りないという実感は相変わらずです。
▼私のために店へ足を運んで、時間かけてがんばって選んだ証拠がほしかった。大切にされている自信がなかったんだな、と今ならわかる。その人は自主的に私にプレゼントしてくれることはあまりなかったし、言葉でも何かを言ってくれることもなかった。必要ないと思えたのだろう。私はそういう事実を信じられなかった。自分の中で確証がほしかった。もらった「モノ」を大切に扱っていない自分を見ればそれがわかる。プレゼントは、手渡された瞬間にその役目を果たしてしまったのだ。「もらった」ことでホッとしたものの、素直に喜べなかった。自分の中で足りないものが本当は分かっていたのかもしれない。(2♀)
▼友達の中で、誕生日にプレゼントをあげるのは当然というような風潮があるが、あげないからといってその人を祝っていないということにもならない。最近
誕生日だった友達に私は、私の本音を書いた手紙をあげた。コメントは聞いていないが、彼女がどう受け取ったのか、興味深い。(1♀)
↑興味深い。続報をお待ちします。
▼家からの荷物の内容は、現金15,000円と、前回帰省した時に忘れてきた衣類、それと父がパチンコでとってきたらしき「カルビー
焼きもろこし」1袋でした。[…]私は小さいころから誕生日には5,000円もらっていて、それが値上がりしたことに単純によろこんでいましたが、今は「誕生日おめでとう」の一言が手紙なり電話なりでももらえなかったことが残念です。(2♀)
↑「モノ」に添えるちょっとした一言、って大事だよね。組合つくってから、私、以前よりかなり筆まめになりました。必要な文書類を送る際にね。
▼でも、かと言って、すぐに「どうでもいーやん、モノなんか」という考えに切りかわれるかといったら、そんな自信もありません。ただ、先生のおっしゃったように、(1日1日をイキイキと過ごせる=豊かさ)という考えにすごく賛成だし、毎日を一生懸命生きたら、もしかしたら(モノ)なんか、どうでもよく思えてくるかもしれません。(2♀)
↑「モノなんかどうでもいい」という境地に達せるものなら、達してみたい、とも思う。
▼私もゴタブンにもれず 車をいじり、他と差をつける事で優越感を味わっている若者です。それがいいのか 悪いのかは別としても 確かに それは 閉鎖的空間を求める傾向によるもので、現代の若者を象徴していますね。私は そんな 自分の性格を意識して客観的にしたことはなかったんですが、今日の授業で「そういえば そうだなー」と思わされました。(4♂)
▼車を持っている自分にとって、志田昇氏の“車による豊かさと自由”という文章には考えさせられるものがありました。[…]決して遊び目的で買ったわけではないけど、“じゃあ、どういう目的で買ったの?”と聞かれても、はっきりと答えられません。ただ、何となく、欲しさにまかせて買ってしまいました。この現状を見る限りでは、欲望の充足が自分に豊かさをもたらしているとは、決して思えないのですが…。(3♂)
↑「人を殺したり怪我させたりする可能性を引き受けられない」という理由で私は免許を持たないことにしています。再来年から稚内での生活になる予定なんですけど、果たしてこのリクツを通せるか?!
▼大学に入学して1人ぐらしをするようになってから、カップラーメンをあまり食べなくなった。1人で食べるカップラーメンは、びっくりする程まずいからだ。同じ理由で、レトルト食品も買わないようになった。こういう加工食品は1人で食べるとものすごくむなしい感じがする。カップラーメンも、一杯を数人で(家族や友人と)うばいあって食べると、なぜかとてもおいしく感じられる。「うばい合う」という、コミュニケーションが、カップラーメンをおいしくしているのだろう。(2♀)
↑「カップラーメンをうばい合う」っていう経験が私にはないけれど、なるほど、と思う。関係の中での食事っていうことがやっぱ重要なんだろうね。
▼一緒にごはんを食べるということは、私にとって幸福な瞬間です。人が「美味しい、美味しい。」と言って食べるのを見ながらする食事って、本当においしいと思います。涙が出るくらい。(3♀)
↑彼女がいたときは、いっしょにつくって、食べて、特に私のつくった味噌汁(だけじゃないぞ!)を「美味しい、美味しい」と言ってくれて、う?ん、よかった。
▼自分は困らないくらいの物の豊かさがあれば、後はその人の内面によって、豊かであるかどうかというのは決定されると考えている。そして、自分はみなと同じである傾向がないと自分で信じているので、けっこう自分自身を気に入っている。(2♂)
↑「自分を好き」って、重要なことだよね。
▼しかし この大量消費の社会はいつまでも続けていけるものではないと思う。そうなった時、今よりもっと大人の社会で、「あの時代って何だったろうね、ウフ」と笑うのでしょう。ウフ。(2♂)
↑私が生きてる間に「ウフ」としてみたいものです。
▼資料の「ぬいぐるみ女」の気持とか、全とくわけが分からない。そんなのタダのバカな気がする。(2♂)
↑現に存在するものを、「理解できない」切り捨てようとするのは、思考停止の一種だと私は思うけど。
▼私はモノに対してどちらかといえば関心がない方だとおもっていたので、講義の前半の話はあまりピンとこなかったのですが、先生が本の話をなさったとき、自分にも身に覚えのあることだとおもいました。そんなにたくさん本を読む方でもないのですが、本を買うという行為自体に妙な安心感を抱いたりします。(3♀)
↑昨年、逆に(?)「書店恐怖症」の人がいました。「これをすべて読まなくてはいけない」という思いにかられてなかなか本屋さんに入れないそう。
▼私は、某ブランド服の販売員をしてました。就職先としても考えていて、目下就職活動中です。リボンとレースとフリルに囲まれていると、おだやかで幸せな気持ちになります。お客様も同じことをおっしゃいます。可愛いくまや花のししゅうの服は、私(たち)の心をくすぐって、満たしてくれます。「いい買い物ができて良かった」とおっしゃて下さるお客様の笑顔が好きです。また、「あなたたち(販売員)の笑顔を見ると楽しい気持ちになる」とおっしゃってもらえたら本当に嬉しくなります。 …けれど、今回の<モノ語りの人々>のお話を聞いて、自分のやっていることが少しむなしくなりました。私は<モノ語りの人々>の欲求を満たす為に服を売っていたのでしょうか。今ものすごく、混乱しています。 …もっと色んな角度から、この問題について自分なりの答えを出せるように、考えてみようと思います。(4♀)
↑あらゆる仕事に、そういう面はあると思う。その仕事が、「世の中のためになるものかも知れないし、世の中の迷惑になるものかも知れない」という意味で。/あなたが、それが「ブランド」であるということによってその仕事を選ぶのと、当の商品群が好きだからという理由でその仕事を選ぶのとで社会的な意味も違ってくるのじゃないだろうか。
「友人」論
▼先生は「いつもつるんでいる相手がいなきゃいけないことはない」と言われたけれど、私はそういう人がいないとつらいと思う。なんか不安になると思う。いつも一緒にいる人を親友だと思ってる。でもそれは「いつも一緒にいるから親友」というわけではない。一緒にいる人がいないと、自分の居場所がなくなるような気がする。どんなに多くの友達がいても、いつも一緒にいて、何でも話せる友達がいないと、孤独を感じてしまうと思う。(2♀)
↑大学に入学したての頃、高校までとの最大の違いが「居場所がない」ことだと感じました。物理的にも精神的にも。それが「自由」の一側面でもあるわけですが。でもって、授業も出ないで自治会室に入り浸る日々が始まったのです。以下次号。
▼「親友と呼べる人がいると思っているかもしれないけど、それは、自分が、そう思いたいだけでは?」と言った言葉に少しドキッとした。(3♀)
↑特定の・固定的な・親友との関係って、もしかして不自由なんじゃないかな、なんて風にも思ったりする。
▼「親友」という言葉には、かなり悩んできました。どんなに仲の良い友達がいても、その友達には更に仲良しがいて、その度に独りの様な気がしました。思っていた以上に「親友」という言葉にこだわっていたんだなぁと今日気付きました。(3♀)
↑それは、よかった。
▼最近友達がすごく増えた。浅くて広い関係だけど、楽しいし、幸せだと思う。親友と呼べる人が見つからなくてもいいと思う。いろんな人の価値観や個性に刺激されるのはステキなことだと思う。(2♀)
↑いろいろな人との「つながり」の中に自分を位置付けられる、って本当にステキなことだと思う。非常勤講師組合の活動で、実感しました。
▼大学にきて、ずごいズバズバ人の性格にケチつけてくる子がいて、なんで?ほっといてよって
さいしょ思ったけど、これが忘れかけてた“わかりあう”ってことなのかもと今日思った。その子とは今、たまにけんかするけどとてもいい友人です。(2♀)
↑その指摘は間違ってるかも知れないけど、指摘してみないと間違っているかどうか判断しようがないからね。
▼親友であるフィクションよりも、生き生きした活動の場、必要とし必要とされる場がどれだけあるのかの方が重要。はぁ、まったく、とおもいましたが、そういう場で必要とし、必要とされれば、他の所でいちいち一緒にいて、親友づきあいの確認をしなくてもいいという意見には疑問を感じます。うまく、いえないですけど、派閥主義というか、友情よりも派閥が上にくる。派閥により結ばれた関係。バイト仲間とか、恋人、クラスメート、家族など、果たして、それらの関係をとっぱらい、一個の自分だけでむきあっても、はたしてなかよくしてられるのか。親友をほしいと求めるのは、当然の心理だとおもいます。(3♂)
↑「派閥」を「役割」に読み替えて考えてみました。/「当然の心理」だというのは同意します。ただ、「親友はいなくちゃいけない」という強迫に縛られなくてもいいんじゃない?
というのが私の強調したい点でした。無理してまで一緒にいなくてもいいんじゃないか、ということです。どう?
▼この前ある友達が自分のことをほめてくれてすごくうれしくなった。その友達は、まわりの人のことをよく見てて
いい所をよくほめています。すなおに人のいい所をみてほめるってこともすばらしいコミュニケーションをするいい方法だと思いました。(2♀)
↑欠点の方が目につきやすいものね。でも、それはどうしてだろう?
▼私は、男に生まれたかった。男の人を見ていると、1人で行動する人が多いし、それがすごく
自然のこととして 受けとめることができる。でも、女性は違う。学校行くのも、トイレ行くのも、ワイワイガヤガヤ集団である。それ見ていると、「だから女って……。」とぼやいている自分。そして
集団に属している自分。一体どっちが本当なんだろう。なんで一人じゃ行動できないんだろう。それこそ、「親友」ができたら、なおさら
その子と全てを行動してしまいそうで、怖い。今のまま、浅く広くがいいのカナァ。(2♀)
↑それを“不自由”だと感じている自分を意識している以上、問題は浅いんじゃないかなぁ?
▼たまに真面目な話もするけど、どうでもいいことを話すことで現実の問題から逃れたいという思いがあったんだとハッとした。でもそんな真面目なことを話すなんてなんか暗いというか、真面目ということを他人に見せたくない、明るく楽しくしてないと受け入れられないんじゃないかってふっと思うこともある。(3♀)
↑その意味で、教師っていうのは幸せなんでしょうね。堂々と真面目な話しして。
▼複数の人間のコミュニケーションは、いわば、「個人」と「共同体」との協奏曲のようなものである。最近のコミュニケーションにおいて、「個人」は「共同体」の空気を乱さないことに神経をつかい、それを常識と考えるむきがある。しかし、これでは、「協奏曲」すなわち、その集団のコミュニケーションHが、発達をうながされ、「個人」と「個人」の結びつきが深まり、友情が生まれることは、ありえない。コミュニケーションが深まるためには、私たち「個人」が他人の会話を全身で聞く、受けとめる能力をみがく必要がある。個々人の、お互いのメロディーを聞きあわなければ、「協奏曲」は生まれないからである。(4♂)
↑うまいレトリックだと思いました。あなたは、「協奏曲」をうまく奏でていますか?
▼お互いにふみ込まないことが、傷つけないと思っている人同士が、フィクションとして「恋人」になったら、もうたいへんである。お互いの自分を出さないごまかしのがまんの限かいが、すなわち、恋人でなくなる時、別れの時である。(4♂)
↑過去の私のことを言われているようで…。あなたも、そういう経験あったの?
▼自分の心の問題なんだろうけど、友達に「○○を一緒にやろうよ」といわれて、私はたいしてやりたくない活動なんだけど、(一緒に楽しんでる)と思いたくて、思いこもうとして、無理してた。少し前までは。でも最近、それでは相手にも失礼だと気づいて、「やりたくないから、やらない。」ときは、きちんと、そう伝えるようにしてる。本心を言っても、自分がおそれていたようなこと(友人関係にヒビが入るということ)は、実際にはそう起こらないもので、1人で「こうだ!」ときめつけちゃうと、くるしくなっちゃうんだナァ、と。現実はもっと実にシンプルで、率直な自己表現って、本当にいいものだと思った。(2♀)
↑「すなお」っていうことば。「人の言うことを聞く」「従順」というイメージがあったりする。私はずーっとそう思っていて、「すなおなよい子」をやっていた。違うんだよね。実は、自分の感情や欲求を抑圧しないのが「すなお」。シンプルだ。
「やさしさ」って
▼「やさしい人」と「やさしさの表現が上手な人」、私は両者には違いがあると考えています。先生はどうですか?(3♀)
↑後者って、もしかして「やさしいフリのできる人」のこと? そうでもないような気もするし。「やさしくしたのに分かってもらえない」っていう経験が多かったっていうことかもしれない。今度もうちょっと展開してみてくれませんか。
▼よく私は「やさしい」と言われるけど、自分では、どこがやさしいのかさっぱりわかりません。ただ、怒らないからなのか。友達にやさしくするのは、みんな、関係をこわしたくないからだろうし、だれだってそうだけど、親友には、やさしさだけ求めていないと思いました。(1♀)
↑こんな風に「自分のどこがやさしいの?」って感じてる方、毎年いる。とまどって、かえって不安になっちゃうんだよね。はて、どうすればいいのか。
▼私に、いごこちのよさだけを求める人もいる。それならば私もそれに応じる。それがやさしいなどと思うはずもない。私は、完全に、身内に厳しく、他人に甘い。相手を本当に大切に思えばこそ、苦言もはいて、悪者にもなろう。だから、私が何もいわないようになった時、その相手をあきらめたものと考えて違わない。深く憎まれるし、深く愛されもする。「やさしさ」の定義はしらない。ただ、「愛」と「甘え」を完全に区別できる人間などはいないと思うのである。(3♀)
↑ちょっと関連してると思うので、次の記事を(『朝日新聞』1998.6.2.)。「学生が授業中に何度注意しても眠ったりする。あきらめてしかるのをやめると、小テストのかたすみに「どうしてしかってくれないのか」と書いてきます。授業の感想を書かせると「しかられてうれしかった」「しかってもらえたのが一番役に立った」と書いてあるものもありました。[…]ある学生は勉強に関しての「しかる」は出来の悪さをしかられたようでいやだが、モラル的なことに対しての「しかる」は自分を認めてもらっている気がするのではないか、などと言っていました。」?「どうでもいい相手だから文句つけない」という“やさしい”友人関係が一般的になりすぎて、教師に代替を求めているってこと?
▼私は時々 自分ではそのつもりは無いのだが、友達に「毒舌だ」と言われることがある。私は
その相手が大事だから「毒舌」をするわけで、別に関係ない人にまで「毒舌」をしているのではない。今日の『人間大学』のビデオで、厳しさも
やさしさ というのを視て、私のしていた「毒舌」って やさしさ なのかもね、と思って救われている。大事な人には本当に
正しいと思うことを、(たとえそれが厳しくたって)言ってあげるべきだ。それで
その友達が離れてしまうのなら仕方ない。私は間違っていないと思う。これが私の考えていたことで、それを
やさしさ だと分かった今、とても あったかい気持ちでいる。(2♀)
↑「優劣競争ゲーム」の戦術のひとつに、“アラ探し”というのがあります。あなたはそれじゃないんですよね?
▼タイに1か月1人で行ってきました。やさしくされたから、他人にやさしくしたいと思った。素敵な人に出会ったから、自分も素敵になりたいと思った。そしてまた、素敵な人に出会いたいと、今思っています。(2♂)
↑きっと、“異質”にこそ発見があるんだろうな。“同質”を求める心には当面の安定は保証されるんだろうけど、発見はないんだろうな。で、みなさん、海外に行けば“異質”を体験できるとは限らないし、国内にいて“異質”を体験できないとは限らないのだよ。
▼よく、好きなタイプはときかれて「やさしい人」と答える人がいますけど、それって厳しさとしてのやさしさなんでしょうか、それとも、仮面としてのやさしさなんでしょうか。(3♀)
↑圧倒的に後者が多いだろうな、と推測しますけど、どうでしょう?
授業についてなど
▼最近、友人のことで色々とあって、人間関係や自分自身のことを、見つめなおし、かんがえている段階です。今日の先生の話で、思い出したくない事まで思い出して、疲れてしまいました。(授業を責めている訳じゃありません。)(4♀)
▼この講義を受けていると自分の嫌な所をどんどん目の前につきつけられているような気がする。(2♀)
▼今日の授業を聴いていて、つくづく自分がイヤになって、イヤなことを言う先生だなとか思ったけど、自分のことを真剣に考えることができる機会は少ないので、がんばって出席しようと思います。(4♂)
↑ある意味で、私は「やさしくない」ことを言うでしょう。意図的です。そのヘンのことは、お配りした『教育』の文章からお察し下さい。
▼今までの自分の生活の中からいろいろなことをビリビリとつかれた感じだった。「実用性」がないなんていっているけど、私にとって充分に実用性あると思う。(3♂)
↑そう、「実用化」するのはあなた。
▼今までいろんな人の講義を受けたけど、今日のように自分の頭に考えが浮かんだのは久しぶりだった。その1つ1つはあんまり覚えていないけど、何故か先生の話は聞いていて先生の話を押しつけられている、という気がしない。(2♀)
↑それは、とってもよかった。
▼先生の話に、私の心は反応して、「そういえば…」って色んな引き出しから色んな思い出とか、友人のかおとかひょいひょいとび出してきて不思議な気分だった。学問として学ぶのは、ちょっと難しいかもしれないけど、自分と照らし合せて考えていけるっていうのは、すてきかなと、ちょっとうれしい気分です。(4♀)
↑これも、よかった。
▼前回から、この授業は他の授業とは違って楽しいと思っていたのですが、それは先生のおっしゃることに、いちいち自分で考えるからなんだと気づきました。最近
何かと考えることが多く、考えると果てしなくなってしまいますが、他の人(先生)の考えなども聞けてためになります。(2♀)
↑この『通信』で、他の人(学生)の考えなども聞いて、ためにして下さい。
▼レジュメにのせられたレポートのいくつかよみました。本当にこんな人がいるのか? 授業に即してはなしをつくりあげているじゃないのかと思うようなものがあってびっくりです。コンビニの人、an
anの人、それから1人じゃいられない人、イミのないはなししかできない人。(3♀)
↑本物だよー
▼先生の授業は、何か、すごく先生にしかない味みたいなものがあって、おもしろいなと思いました。話を聞いていると何かこれからの人生に役に立つことが、他の授業とは違って、あるような気がします。
↑どんな“味”なんだろうねぇ。言語化できたら教えて下さい。
▼この授業は他とは違うな、って思いました。先生自身が、自分をぶつけてきてくれるから。そういう授業って、大学来てなかったなぁ、と思う。(3♀)
↑こんな風に受け止めてくれると、うれしい。
▼先生が講義中、反応のうすい私たちを相手に自分の考えをさらけだしているのを見ると、なんだかすごいことをしているな、と思う。1対1とか、少ない人数相手ならともかく、たとえば言葉のとらえ方のちがいとかはたくさんあることだから、批判とかもどうしても多いと思うし、しかもいちいちそれに「そうじゃないんだ」と言える場もないと思うので、先生はつらくないのかな、と思ったりもします。もっとゼミのような形式でこの講義があったなら、もっと充実できそうだなと思いました。先生と「会話」がしてみたい。(4♀)
↑都留文>都立短大>青梅看専 の順で、授業しやすいです。出席率はちょうど逆になるんですけど。/かえって少人数だと話せないことも教室では話せる、という関係があるかも知れません。実際、近隣の人に対してよりも、みなさんに対しての方が自分をさらけだしています。/キツイことばは度々いただきます。その度に落ちこんでヤケ酒を食らいますが、“無関心”よりはいい、と思い直して向き合っているつもりです。
▼あと、この感想を読む時、どんなに変な文章でも、先生は何でそう書いたのか理解する努力をするという話を聞いた時、涙が出そうになった。今までそんな人いなかったのではないだろうか。わからおうと努力する子取って、誰もやろうとしてなくて、しかも難しいことだと思う。それを実行している先生は、すごい。私を含めてみんなその様な当たり前のことをしていないし、しようとしていない。本当に泣きそうになってしまった。(3♀)
↑そ、そんなに感激してくれなくても…。それがどれほどできているかは、この『通信』で確かめていただくしかないんですよね。ま、「ある程度は」くらいのもんでしょうね。
▼この授業を受けていると つらくなる。自信をなくすというか。大学で受講している授業の大半は、半分ひとごとの様に聞いていることが多い(民族紛争のこと、従軍慰安婦、ダイオキシン問題etc.)が、コミ論だけはそうは
いかない。配布された資料の記事にも、昔のレポートにも 私の分身が いっぱい
いっぱい 隠れているような気がして、気がぬけない。まあ その辺も期待してこの授業を選択したのだけど。(2♀)
↑他の授業でも、「半分ひとごと」以上に向きあって欲しいと願う。
▼やさしさにつながらない、理論だけの学び。頭のよさ。や 優劣競争のおろかさなど改めて言われなくても、日常生活のなかで、だれもがわかっていくものなのではないか。20年前後、生きているのだから。/でもこうして、文字にしてもらうと、「なんとなく思ってた」ことが明確になり、今後にも生かせやすくなる。(3♀)
↑前半と後半、ホントはどっちを言いたかったのだろう? 「わかっちゃいるけどやめられない」社会だから論点にしてみたわけなんですけど。
▼こういうことを真剣に考えるのは恥ずかしい気もします。中学生ぐらいのころ、こういうことを考えていて、「若い」とか「思春期」とか言われるのが嫌で、極力避けてきたので。(2♀)
↑すると、37にもなってこんなこと言ってる私は何なんでしょうね(・・・
!
▼私は名前からして先生には好感はもっていたのですが、出身地も一緒だということでますますうれしいです。今度
函館について語りましょう。(2♀)
↑「名前からして」って、もしかして、私と結婚しても姓を変えなくてもいいから? でも私、夫婦別姓がいいと思ってるんで… /因みに、私は函館中部高出身です。
▼授業で、途中退室は自分の存在が認められていないように感じる、と先生はおっしゃっていましたが、私もそれは家庭教師のバイト中によく感じることです。私がすごく熱く講義していても、生徒にチラチラ時計を見られたり、お菓子を取りに別の部屋へ行かれると、(私って何だろう?)って思ってしまいます。(2♀)
↑ね、だよねー。
▼でも話すスピードが早いよと昨年以上に思った。思い浮かんだことがメモできないっす。(3♂)
↑ほか、何通か。ダブル・ブッキングのため開始時間がだいぶ遅れたのであせっちゃいました。でも、基本的に“慌て気味”なのは私の神経症的気質からして仕方がない、と諦めてもらわないと。
▼社会科学を学ぶ目標のひとつは、自分の頭で考えられるようになること先生はおっしゃった。確かに、私も自分で考え、判断することは大切だと思うが、それが価値を発揮するのは、あくまでも実行力が伴う場合のみではないだろうか。自分の頭で考えれば、自ずと問題意識を持つようになり、「何とかせねば。」という気持ちになる。しかし、その思いを実行に移す気力・能力がないと、孤独感を深め、えん世感を抱く危険性がある。(4♀)
↑「孤独感を深め、厭世感を抱く」経験があった方からの発言だと思います。でも、諦めないで欲しいと願う。自分で判断して行動したことが、うまくいかなかったり、まわりに文句言われたりするのは当たり前なんだもの。
▼何だかこの授業を受けると、授業中つい自分の考えにふけってしまってトリップ(?)してしまいます。[…]えーと
まず 先生の印象としては、「色んなことが見えてしまいすぎる人」だと思いました。真面目というか。何を見るにしても
するにしても色々考えてしまって、大変だろうな、と思います。私もよく どうでもいいことを
えんえんと考えてしまったりするので、よく自分がうざったいと思うのですが。少しくらい鈍感な方が人生楽しいんだろうな、と思ったり。(4♀)
↑言われてみると確かに、私って「気にしすぎる」ことが多すぎるかもしれない。たまに出る神経症の症状とも関連しているんだろうな。あと、どんどんトリップして下さい。
▼先生の話をきいていて、「私と違う考えだ」とか「甘いよ、そんなの」と時々ムッとしたが「やっぱりインテリじゃん」と「話うまいなー」とか感心した。今日の授業で、人間関係が大事とか言っていたけれど(←そんなふうに聞こえた)、そんなに人づきあいって大事かと思う。私は、エゴイストといわれるかもしれないが、自分が好きだし大切である。“人間、協力しあって生きていかなきゃ”と言う奴に限って人を傷つけると思う。ところで、先生て周防正行監督に似てると言われたことありませんか。(3♀)
↑ありません。佐野史郎(近所の幼児が「あ、冬彦だ!」と逃げていったとか)か、カズンの男の方、っていうのは言われたことありますが。私、その周防さんの顔を知らないんですよ。「Shall
we dance?」は観ましたけど。/で、「そんなに人づきあいって大事?」の方ですけど、私自身が、そこで困難をあれこれ感じるからこそ、こんな話をしている、ということです。あなたにとっても、「傷つけられた」経験が痛かったからこそ、「人づきあい」を遠ざけようとしたりしてるのじゃ? つまり、それだけ重要な意味を持っていたということでは??なんて憶測に過ぎませんね。
▼大学に通っているというよりも、ただ遊びに来ているようにしか思わない。大学生っていう実感が起こることはないし、ただお金がかからないから、この大学を選んだようなもの。毎日が全然楽しくない、早く単位を認定してもらって卒業したい、勉強はただ高校や大学に進むための手段でしかない、将来役に立つ科目ってあるんだろうかと思う。免許をとるためにただ嫌々仕方なくとってるだけ。充実してないから時間がもったいない。自分自身で大学生活ではなく、人生を楽しく生きていきたい。(2♀)
↑でも、出欠をとらないこの授業に出たってことは、何か求めてるんじゃなかろーか? 言語化されたこうした表現をそのままでは受け取らない、っていうのが私の最近のクセなんです。
▼余談だけど、僕は家庭教師に対して懐疑的。先生もバイトをやっているということなんだけれども、この閉鎖的教育社会の中で、何をアルバイトとして教えうることができるんでしょう。お聞きしてみたい。(2♂)
↑私が数学教えてる塾は看護学校受験専門なんですよ。彼女たち(男性もたまにいるけど)は、「偏差値を高くしたい」とか「高い学歴を得たい」とかじゃなくて、「看護婦(士)になりたい」という思いで来るわけです。だから何なんだ? ……えーと、だから、……やっぱ、学歴社会に寄生する教育産業の一種に従事してるに過ぎないのかなぁ? ただ、塾全体としては、「1日看護婦体験」とか「婦長面談」とか「病棟ボランティア」etc.を病院と連携して行なって、ただ「教科内容を教え込めばいい」というのとは志が違うのですけどね。/あと一般的に、教室という場では“能力を発揮させてもらえない”こどもも多いと思うのですよ。その子にとっての“サポーター”みたいな役割を果たす人が塾教師や家庭教師として存在してもいいんじゃないかな、なんて思います。以上、暫定的ですけど。またご意見下さい。
▼先生はもしかしたら、「コミュニケーション不全症侯群」(中島梓著、ちくま文庫)を読んだことがありますか? 今日の講義でおっしゃってた事があまりにもくりそつなので ちょっと(笑いをこらえるのに)大変だった…(4♀)
↑どこが似てたのか、私には分からないです。問題意識の共有してる部分は多いかと思うけど。私の話、彼女の話をパクッてました?
▼講義要項には受講制限についてしか書かれていなかったのですが、メディアとしてのマス・コミュニケーションについてもふれてゆくのですか。(2♂)
↑比文で「マスコミ論」になってるのは、学科設立のための文部省申請時の単なる手続きミス。来年度からは<比文の方へ:これは「コミュニケーション論」であって「マスコミ論」ではありません>って講義要項に書いた方がいいな。
▼黒板をテレビ画面に写したって、見えないから何の意味もない。(2♀)
↑あ、そうなの? しっかし冷たい書き方だこと。