都留文科大学 94年度 J.M.
評論家の虫明亜呂無氏の著書の中にこのような節がある。「テレビの野球を見ていると、野球そのものも堕落してしまったが、それを甘い顔をして見ている自分も、駄目になった、と痛感する。恥ずかしい。情けないと思う。わが家の茶の間、テレビの前にどっかと腰をおろして、『おや、スライダー、ちょっと切れが甘くなりましたネ』などと冷えたアイスティーでのどをうるおしたりするのは、教養のある男子のすべきことではない。そんなことは、女、子供にまかせるべきである。教養ある男子ならば、借金、質に通っても、身銭を切り、生活の苦しさ、痛さを満喫して、はじめて、野球がわかりはじめる。体でもって、空気のにおいで、汗と涙で野球がわかりはじめる。スポーツとはそうしたものだ。」(虫明亜呂無の本、第三巻、時さえ忘れて)一見、マゾヒスティックな現場至上主義のように見えるスポーツ論であるが、確かにその通りに思える。
もちろん、テレビの野球中継にも長所がないとは言えない。絶体絶命のピンチを迎えて脂汗を流している投手の顔が緊張して乾ききった唇をなめる打者の表情など、クローズアップで見ることができるのは、やはりテレビならではの迫力といえる。しかし、見たいと思う選手の顔を心ゆくまで映してくれるわけでもなく、それは球場へ双眼鏡をもって行けばすむし、想像力で何とかカバーできる。つまり、野球というスポーツにおけるテレビの役割とは、球場へ行くことができないときの便利なメディアであっても、やはり、決して野球の魅力を味わえるものではないと思う。
以上のような思いを強くする出来事が今年の夏にあった。私の実家は大阪府の藤井寺球場の近くにある。近鉄バッファローズのホームグロンドであるその球場は、私にとっって絶好の道草の場であった。学校の帰り、塾の帰り、そのそれぞれに必ずといっていい程、外野席から野球を見ていた。しかし、大学に入り、町を離れると、もうテレビでしかプロ野球を見れなくなった。つまり、野球はテレビで見るものだという生活が3年以上つづいたわけである。それが、今夏、機会に恵まれ久しぶりにバファローズの試合を観戦できた。はじめは、懐かしい雰囲気に喜びを感じていたが、徐々に不安というか、もの足りなさを感じてしまう。実況、解説やスローモーションの再生のないゲームに退屈さまでおぼえる有様で、試合後には充実感のかけらもなかった。これは、つまりテレビの画面で誇張される野球に慣れすぎたため、「野球を見た」と思わせてくれるシステム(実況、解説など)がないと楽しめない人間に自分が成ってしまった結果であろう。想像力が欠けた、受身人間である自分を痛切に思い知らされた気がした。
講義でもあったように、テレビとは代理体験をさせてくれ、映像だから一層、本質がよく見えると、受け手に錯覚させてしまうと思う。こと野球に関しては、強くそう思う。野球場へ足を運び、スタンドを吹きぬける風にあたり、グランドの土のにおいとフィールドの芝の香りをかぎ、広いスタジアムの四方八方を眺め、ビールを飲み、ホットドックを食べ、野次を飛ばし、歓声をあげる。そのように、五感のすべてを使って「野球を味わう」ことが「野球を観る」ことだと私は改めて思う。アメリカの作家フィリップ・ロスは「素晴らしいアメリカ野球」という著書の中で、「野球は、球場で席ひとつ変わっても、違って見えてくるゲームである」と書いている。つまり野球とは、それほど多種多様な要素と変化に富み、豊かな想像力を喚起してくれるスポーツだといえる。
卒業し、環境が変わることを機に、夕食後2〜3時間もテレビのナイター中継で無駄な時間を過ごすのをやめて、そんな無駄な時間は球場へ行き、想像力を広げる素晴らしい時間にしたいと思う。テレビの画面で切りとられた一部分だけを見て楽しむのではなく…。