プライバシー・個人情報について

2002年度   高谷邦彦

 以前、日本に滞在したことのあるイギリス人から、日本で何度も経験した、不快感をともなう体験(単なる文化の違いによる摩擦と呼ぶべきなのかもしれないが)を語られたことがある。日本にいる外国人なら誰しも、英語を話す国民かどうかにかかわらず、街角で唐突に英語で話しかけられる体験が多いそうだ。もちろん、日本人の側からすると、それは英会話の勉強のための正当な行
為である。しかし問題はそこではない。話しかけるセリフ(正確には疑問文)の内容にあるのだ。
 「あなたの名前はなんですか?」「どこの国から来たのですか?」ここまではまだ許せる(らしい)。
 「あなたは何歳ですか?」「家族は何人ですか?」「どんなスポーツが好きですか?」「結婚していますか?」・・・こうした質問は、中学生の英語の教科書に載っていて学校の授業でもよく扱われるようなものばかりだが、その知人は違和感を覚えるという。
 自分の年齢、身長や体重、家族構成、好きなもの嫌いなもの、などは、かなり個人的なことであり、生まれて初めて会ってからまだ2、3分しかたっていない相手に対して尋ねるべきことではない。それらはある程度知り合いになってから、少しずつ語りはじめるような話題なのに、出会う日本人の多くがみな平気な顔をして質問してくることが彼にとっては不気味であり、同時に不快でもあったと言う。
 「プライバシー」というものに対しての感覚が、日本人と西洋人の彼との間で、大きくちがっていたわけである。日本人にとって、「プライバシー」という言葉はどうも「秘密」という日本語に近いものとして解釈(正確に言うと誤解)されていることが多いのではないだろうか。そして「秘密」という言葉には、他人に知られるとマズいこと、隠すべきこと、というようなややマイナスのイメージがある。だから、年齢や家族構成などは今までの日本の社会常識からいってけっして「他人に知られてマズいこと」とは思えないから、なんのためらいもなく他人に尋ねること(あるいは教えること)ができるわけだ。
 そうした国民性などもあって、プライバシーの保護や個人情報の管理に関しての問題意識・危機意識も低いままなのではないだろうか。自分の住所や電話番号、出身校と学歴、家族構成、(親の)職業や収入、などが何らかの形で他人や調査会社に知られたり、極端な場合、インターネット上で誰でも簡単に検索できてしまったりすることが、どういうことを意味するのかを、深く考えていない人が多いように思える。(どういうことを意味するのかを教わる機会が今までほとんどなかったのだから、仕方がないといえば仕方がない。本来は子供の頃から徹底的に教えるべきことなのだが、そういう時代がやってくるのはまだ先のことだろう。)
 現在の社会では、住所や電話番号や職業など、自分の個人情報のいくつかを記述・入力しないと利用できないサービスが非常に多い。買い物の際も、たとえばスーパーなどでさえ、会員になると特典があるいうふれこみで、利用者の情報を収集している。また、たとえば役所の各種届け出などは、住所氏名など誰でも入手可能な情報を知っているだけで、あとは三文判さえあれば、見ず知らずの他人でもその当人になりかわることができる。そうした役所の手続きの不備をついた犯罪も現実に起きているし、最近ではその問題を指摘する声も多くなっているようだが、まだ対策は不十分で、改善には至っていない。それどころか、住民基本台帳法などによって、事態はますますよくない方向に向かっていこうとしている。個人情報を悪用する側にとっては、さぞかしありがたい
話にちがいないが。
 つまり、国民だけでなく行政サイドも、プライバシーに対する意識や理解がまだまだ低すぎると言わざるをえない。そうしたナイーブさ(「ナイーブ」は、英語では世間知らずの大人を馬鹿にするときの言葉だ)が日本人の特徴でもあるわけだれど、それが日本という国の伝統なので仕方がない、などとはもはや言っていられない状況になるのはまちがいない。時代は変わるものであり、それに伴ってものの見方や考え方もある程度は変えてゆかなければならない。
 そもそもプライバシーや個人情報の問題とその重要性について声高に語っているのは、日本ではまだ一部のインテリ層だけで、一般市民(特に日本の世論の大勢を占める主婦層)やお役所に勤める人の多くも、そしておそらく政治家の大部分も、まだいい加減な認識しか持っていないようにしか思えない。だから、国民総背番号制のようなシステムを導入することは、管理する側にとって
も管理される側にとっても便利にちがいない、というレベルの認識しかなく、問題点の真の深さに気づいていないのではないだろうか。
 ではそうした国民の認識を変えるためにはどうすればよいのか。私は、かつてオウム真理教が起こした一連の事件のように、国を揺るがすような大事件や常識を覆すような出来事が必要だと思う。国民全体の考え方というものは、通常のやり方では短期間に変えられるものではない。現状では、いくら学者や政治家、ニュース解説者、文化人、知識人と呼ばれる人たちが熱く語ったところ
で、それを取り上げているメディア(堅い雑誌やテレビのドキュメンタリー番組、講演会など)を目にしないような層の人々には伝わるはずもない。見ているのはおそらく問題意識をすでに持っている人々ばかりだろう。だからこそ、低俗なワイドショーでも長期間にわたって大々的に取り上げるような大事件でも起こらないかぎり、全国民レベルでの啓蒙は難しいと言わざるをえない。一度そうした個人情報を悪用したスキャンダラスな事件でも起こってくれれば、その反省からきっと急速に改善されることになるはずだ。非常識な発想かも知れないが、常識では解決がむずかしい問題もあるのだ。