可愛くなろう−斉藤先生に捧ぐ−

都留文科大学     95年度     T.A.

 世の中には、全く、「この子は恋愛するために生まれてきた」と思える人がいるような気がしてならなかった。ある人は、好きな人に告白しては、ふられるというパターンの繰り返しである一方で、ある人においては、命中率100%ということがある。(私は、女性の側に立って論をすすめていく。)そういう子達が美人かというとそうでもない。「なんであの子には彼氏がいて、私にはいないの?」と思ってしまうカップルを見る女の子達は少なくないはずである。(たまたま私の友達はかわいい子が多いが…。)
 私の中・高時代と言えば、受験勉強一色で、恋愛なんていうかんじではなかった。今にして思えば、同年代の男の子達は、やはり子供ぽかったのだろう。しいて言えば、高校時代に、あこがれの先生がいたくらいであろうか。つまり、いつも彼氏のいる女の子達を見て、私には、そういう素質がないと思っていた。
 ところが、大学に入学し、制服姿ではパッしない私も、好きな服を着て、お化粧をし、私学の男の子達との合コンに、めかしこんで行けば、後で聞く評判は、まんざらでもない。
 自分の十代の経験が勉強中心だったせいで、男の子には、当然、頭の良さを求めていたので、さえない私学の子達との合コンは、最初あまり興味をそそらなかったが、実際に出席すると、意外に学ぶところが多い。第一に、頭の良さよりも性格の良さが物を言うことが分かった。逆に言うと、勉強ができなくても、性格が良いとなんとかなる。いくらお勉強ができて、本をたくさん読んでいて、知識が豊富でも、性格が悪かったりすれば、おそらくその彼又は彼女の話は誰も聞かないだろうから、結果として、その人の頭のよさは、少なくとも人とのコミュニケーションの中では、意味をもたない。(相手がコンピュータ等なら話しは別だろうが…。)
 性格が良いということで思い出す男の子がいる。その男の子は、とにかく気が利くし、全体に注意が行きわたっていて、やさしい子だった。そんな彼には、超美人アイドル似の彼女がいるらしい。「やっぱりな。」と思った。こんなかっこいい男の子が一人のはずがない。しかも、よくもてるらしい。二次会のカラオケで、運よく、彼のとなりになり、とても近い距離でしゃべっていて分かったことがあった。「この人は愛されてきた、そして今も愛されている。」と。彼は、3人姉弟の末っ子で、上の2人は、女の子。父親は単身赴任ぎみという家庭。可愛がられるはずである。私が、「女の子のことはよく知ってるでしょ。」と聞くと、「ううん、大切なことは全然知らない。」なんて答える。そんなところがまたまた可愛らしい。愛を注がれると、別の誰かにも、愛を注ぐことができるらしい。このことに関しては、女の子の友達で、すぐに思い浮かぶ子がいる。私は、彼女のさばさばしていて、人を受け入れるキャパシティーの大きさに、尊敬の念を持たずにはいられない。彼女は両親からも、兄からもずっと愛されていて、幼い頃から、兄は家に帰って来て、彼女の姿が見えないと、すぐに、「あれ、Mは?」と家族に聞くらしい。
 私も、両親にはよくしかられ、心配されてはきたが、十代の記憶の中に愛なんて言葉を探すのは困難である。では、私は、誰かに愛を注ぐことはできないかと言えば、そうでもないらしい。一年の秋頃に、私にいつもやさしくて、心配してくれて、好意をもってくれる人がいた。冬休みに家に帰った時、「やさしくなった。」と家族にいわれたもの。友人の中にも、去年、自分から告白してふられたが、今年めでたく、好きな人とつき合っている人がいるが、日々の生活に、余裕と安定が見えている。こうして見てくれば、「愛は天下の回りもの」と思えてくる。素質とかで悩むことではない。人の子である以上、愛されない人はいない。もしくは、愛されていると思うその心が重要だ。
 「愛し」、「愛され」るのは、相関関係だが、あえて、「愛し」→「愛され」でいこう。そして、そういう関係に身をおく人は、可愛いのである。最近、二十才になって、「可愛い」ということが分かってきた。それは、愛す可き人 or 愛することが可できる人、と読みとることだ。前は、美人の周辺ゾーンがかわいい人だと思い、従って、かわいい人は美人の次に少数だと思っていた。しかし、最近になって、可愛いという性質はすべての人に備っていると思えてきた。友達と、彼女らの彼氏の話しをしていても、「(彼氏の)そこが可愛いのよ。」なんてよく聞くのである。可愛い人を深く憎めはできないし、可愛い人は得をする。
 「私は、かわいくないし話しをするのも苦手だし。」などと言っている場合ではない。少しがんばってニコニコすれば、心の方もニコニコしてくるものである。両者もまた連動しているから。
 さあ、みんなで可愛くなろう。

参考文献:『美人論』井上章一 リブロポート